→→ Oratorio 5
(……なんで……なんでっ……!)
逃げる。逃げる。
兵士達から。予感する恐怖から。
(……どうしてっ……こんなことになっちゃったの?)
名前と性格が真逆の兄達。掴めない性格の親友。
四人で、あの屋根の下で過ごした2年間。
穏やかで、笑ってばかりだったような、幸せだった日々。
……何が……いけなかったの?
「えっ……」
踏み出した時、唐突に、パシャっと水の音が跳ねた。何?と足元を見る頃には、くるぶしの辺りにひんやりとした感覚もした。
まともに前も見ずに走ってきたからか、正面に川が流れていることに気付かなかったらしい。自分の足は、川の浅瀬の中にあった。
六香は慌てて川から上がり、水を吸って重たくなったズボンを引きずって水辺に立ち尽くした。
——足が、動かない。
力を入れようとしても、足の裏が地面に貼りついているように微動だにしない。
まるで、水をかけられて消えてしまった炎のようだった。
(アタシの……せい……?)
目の前に流れる川を見つめて、六香は不意に思った。
突然わっと湧き出した涙が、溢れるようにこぼれてくる。力の抜けた膝が地面につき、そのままペタンと座り込んだ。
アタシは、あのままでよかった。
春霞兄と、冬芽兄と、海凪と。
みんなで暮らせられれば、それでよかったのに。
それなのに、それが壊されたのは、どうして?
アタシ達が密偵だから?
じゃあ、原因は、誰?何?
………………アタシだ。
(壊したのは、アタシ自身……?壊したかったのは、アタシ自身?! アタシのっ……責任!!)
軽率な自分の行動が、最悪の事態を招いた。
それに気付いた途端、ひどい自責の念に襲われた。崩れ落ちるようにしゃがみ込み、顔を覆って、肩を震わせながら、それでも泣き声を必死にこらえた。
いつも傍にいた兄達と親友が、いない。
慰めてくれる人が、いない。
彼らがいないだけで、こんなにも孤独になる。
涙が止まらない。
悲哀。
恐怖。
悔恨。
自責。
ごちゃ混ぜな色の涙は、止まらない。
「—————また泣いてるの?」
自分の嗚咽だけが響く世界に響いた、自分以外の声。
……ふと、頭を掠めた懐かしさ。無意識に、動きが止まっていた。
顔を覆っていた濡れた手のひらを除けて、ゆっくり顔を上げると。
そこに、あの日とまったく変わらない、綺麗な笑顔があった。
……………………
♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪
(……ホントは)
最初から、わかっていた。
自分が、「戦力外」だってことを。頭数に入れられていないってことを。
バルディアが、自分を密偵として数えなかったように。
今、呆気なく楸に不利にされているように。
(まだ、何処かで……生きてるんじゃないかって)
そう思う自分は、まだ甘えん坊なんだと自覚している。
春霞や冬芽、海凪に頼りすぎていたんだって、別れた後に気付いた。
だから、決めたのだ。
それらと決別するために。川辺で再会した、2年前の笑顔の主についていくと。
その時は、ただ自分が昔と決別したいがために、少し困ったふうだった彼に、半ば強制的についていった。
しかし、今は——変わりたい。
過去とは、決別しなくてもいい。むしろ、大切にしなければと思う。あの幸せな日々を、あの日の過ちを。
その代わり、弱虫で甘えん坊な、こんな自分を、変えたい。
戦力外?それがどうした。
夕鷹も言った。何かできるとか、できないとか、そんなのどうでもいい。
アタシは——、
(アタシは……アタシにできることをしたいっ……!!)
アタシにできるかできないかなんて、やってみなきゃわからない。
今だって、楸の足止めができるかなんて、やってみなきゃわからない。
いや——やってみせる。
銃を握る垂れ下がっていた右手をぎゅっと握り、六香は、首筋の銀の光を認知しておきながら、ばっと迷わず身を引いた。
「!?」
(何だ!?)
身を引くのと並行して、両手の銃をガシャと構える六香。突然冴えた彼女の動きに楸は動揺しながらも、剣を持ち直してからでは間に合わないと察する。剣先を下ろし前に大きく踏み込んで、自分に照準を合わせようとする右の銃を、下から手を振り上げて弾き上げた。
上げられるとほぼ同時に、鳴り響く銃声。真上に上がった銃は天井を、残った左手の銃は楸の二の腕を掠めた。楸が小さく表情をしかめたと思った瞬間。
「あうっ!」
楸の大きな手が六香の細い首を捕らえ、その勢いのまま壁に強く押しつけた。喉が一瞬狭まって、六香は苦しそうに咳をしてから、キッと近距離の楸を睨みつける。
「………………」
手のひらを通じて、掴んだ首から確かな脈が感じ取れた。自分が手に力を入れれば、確実に六香は死ぬ。
——だが、この状況下。力を入れた次の瞬間、死ぬのは自分の方だった。
首を掴んだ瞬間から、自分の頭の横に突きつけられている、六香の左手に握られた銃。これが発砲されるのと、自分が力を加えるのとでは、恐らく前者の方が早い。
してやったりというふうな、六香の表情。——六香は最初から、この状況を想定していた。
「これで……アタシの勝ち。……言っとくけど、今度は、撃つわよ……」
「殺せるってのか?てめぇに」
「……後悔は、するかもね……でも今は……早くアンタを倒して、夕鷹のトコに、行かなきゃって……それだけしか、考えて、ないから……」
肩を上下させながら、六香は何処となく青白い顔で小さく笑った。
さっきの行動は、賭けにも等しかった。死ぬ可能性、予測が外れる可能性。どちらも、その可能性は否めなかった。
しかし、その可能性をかわし、やり遂げた今、六香の心の中には静かな達成感が広がっていた。
(……ムカつく)
——なぜだか、物凄く、不快だった。
自分が守りたいと思ったものを、自分のやり方で守ることができた時の、初めて見るその表情。
守りたいものなんて、何もない。あえて言うなら、自分自身。
守りたい他者がいる六香。守りたい他者がいない自分。
だからだろうか?
今、六香を感情的に嫌うと同時に、憧憬を覚えている自分がいる。
それに気付いて、自分に呆れかけた時だった。
ずん、
「「……っ!?!」」
巨大な何かが全身にのしかかったような、常軌を逸した威圧感。
「な、なに……!?」
体が重い。腕を上げているのも苦痛になるほどの、その圧倒的な張り詰めた空間の中、六香は冷や汗を浮かべ絞り出すように声を上げた。
それは楸も同じだったようだ。彼もまた驚いた顔をして、とっさに周囲に気を張り巡らせていた。
「何が起きてやがる……?! おいてめぇ、仲間とか変な能力持ってんじゃねーのか!?」
「し、知らないわよっ!アタシも初めて……、……っ?」
施設全体を覆っている空間が、おかしい。ガクンと首を揺さ振って問い詰めてくる楸に、六香はとっさにそう返しかけて。——ふと、フィスセリア島のことを思い出した。
まとっている空気が、別人のように豹変した彼。
(ま……まさか……っ)
「チッ、使えねぇな!コッチか!?」
楸は、放り投げるように手荒く六香の首から手を離すと、そう言い捨てて威圧感が濃い方へと、黒いコートを翻して走っていった。
六香は壁に背中を打ちつけて、少し息を詰まらせた後、深呼吸をしてから言った。
「使えないのはアンタもよ……」
呆れたように呟いてから。六香も、胸の内に溢れる焦燥に押されるように、楸の曲がった角へと駆け出した。
♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪
「……っ」
紫電に揺さ振られ、六香をかばった時の傷が痛んだ。
右だけほのかに光らせた金瞳をつらそうに細めて肩を押さえ、夕鷹は片膝をついていた。その視線の先では、紫電が火花を放ちながら舞っている。
「わかんないなぁ……何で戻ってきたの?死にに来たようなモンだよ?」
プロテルシア内の、施設全体を司る動力制御室。その中央に立つ、紫電を操る青年——玲哉。
六香と別れた後、来た道を戻っていくと、雷のエネルギーを蓄積して施設全体に供給する、この動力制御室の前に玲哉がいるのが見えた。向こうもコチラに気付いたらしく、驚いた顔をしながら部屋の中へ消えた。だが、追ってくるとは思っていなかったようだ。
「大体、俺の前を素通りしたって気にしないよ?君を殺しちゃったら、後々困るから。なのに、何であえて向かってくるの?」
「……気を、そらすため……かな。……俺さえ生きてれば……六香と……梨音は、いらないんだろ……」
「へぇ……俺、君に何も言ってないのに、俺がしようとしてること、わかってるんだ?」
「大体ね……」
そう答えながら、夕鷹は玲哉の底知れない強さに焦っていた。
(『片方全開』で、ようやく並んだ感じだ……でもこのままじゃ、俺の方がやばい……)
今の衰弱した夕鷹を、玲哉はきっと造作もなく殺せる。それなのに今、自分が生きているのは、ほとんど彼の慈悲だ。
「あんたが……椅遊に、あんなに執着するのは……魔王のせいだろ?魔王じゃないと、いけない理由は……あれくらい大きな力が、必要だから。……魔王の、力は……まだまだ、あんなモンじゃないからな……」
「よくわかってるね。そういうこと」
「くだらないなっ……!!」
そう吐き捨てるなり、夕鷹は悲鳴を上げる体に逆らって、床を蹴って弾けるように玲哉に跳んだ。普段より何倍も速いそのスピードで迫る夕鷹を、玲哉は冷めた目で見つめて、顔の位置で振られた足を一歩引いて避ける。
目の前を靴底が通り過ぎ、その足が床についてすぐ続けざまに、もう片方の足が流れるような連携で回し蹴りを放ってくる。バックステップしてそれをかわした玲哉は、さらにダッシュをかけようとしていた夕鷹を一瞥し、紫電を放った。うねりながら近付いてくる紫の軌跡に、夕鷹はとっさに身を逸らす。
「うっ……!?」
傷の上で、紫電がスパークした。
かすかに避け切れなかったらしく、体の末端から体の上を這って全身を駆け巡った紫電。視界がチカチカして、夕鷹は目を覆い、ぐらりとふらついた。
「あ、イイモノ発見」
色を取り戻してきた目で玲哉を見た時、彼は、自分の近くにあった机の上から、何か黒いものを手に取っていた。コチラを見ている夕鷹に向かって、彼はそれの中身を確認してから、夕鷹にそれを向けた。
チャ、と構えられたのは、一丁の拳銃。バチッと音が弾け、その上さえも紫電が這う。
「何て言うか、君とは馬が合わないね。同じ金眼者だから、生かしておいてあげようかなって思ってたけど……予定変更。死んじゃえよ」
その顔から、すっぽり微笑みが抜け落ちた。構えた銃口を紫電がとりまく。
「俺の力って、つくづく便利だよね。この銃、弾丸ゼロなんだ」
「……?」
そんなものを構えているのかと、夕鷹が訝しげに見つめる前で。玲哉は、まっすぐ夕鷹に向けていた銃口の高度を45度上げ、トリガーを引いた。
そして響いたのは、カチ、という虚しい音ではなかった。
バチィッ!!と銃口から放たれた雷弾。弾丸と同じ程度の大きさのそれは、夕鷹の頭上の天井を穿った——と思いきや、そこを中心に、紫電が大きな半円を描き。そして、まるで隕石が落ちたかのように、それは広範囲を破壊した。
予想外の威力だった。コンクリートと鉄でできた天井に、大きな亀裂が走る。
「っ……!?」
潰される。そう思った夕鷹が床を蹴ったその直後。
ガシャーン!!とガラスの音が響いて、すぐ横から、玲哉の紫電とはまた違った強烈な雷撃を浴びた。声にならない悲鳴を上げながら、そういえば自分の横に雷エネルギーを貯蔵した大きなガラス管があったことを思い出す。玲哉がそれを銃で壊したようだ。
「かはっ……」
ガクンと座り込んだ夕鷹を、ガラガラと上から降ってきたガレキが取り囲む。
走る力もない。足掻く気力もない。
やばい——このままじゃ、ホントに死ぬ。
……椅遊を。
椅遊を、助けなきゃいけないのに。
玲哉を、止めなきゃいけないのに……
俺じゃないとできないこと……見つけたのに……
もう……俺じゃ無理だ。
俺じゃ……
ガレキに埋もれていく夕鷹の姿。そして、一際大きなガレキが夕鷹の頭上から落ちてきた。
夕鷹は——動かない。
まるで魂が抜けたかのような彼の真上に、そのガレキは無慈悲に落下した。それでも止まらないガレキの雨。大量の埃が舞い、そこにガレキの山ができあがってから、崩落はようやく沈黙した。
「……殺しちゃったかな」
ガレキが降り終わっても、起き上がってくるかと思って銃を構えたままだった玲哉は、その言葉とともに銃を下ろし、それを脇に放り捨てた。
「ま、采がいるから、まだ大丈夫か」
ココに来たのは、施設全体の雷エネルギーを供給するためだったのだが、貯蔵するガラス管を壊してしまったので、もう蓄積はできない。元々捨てる予定のところだったし、と玲哉はガレキの横を通りすぎた。
————— 開放け —————
内なる声。
開け。望むままに。願うままに。
解き放て。その『瞳』を。
その奥に鎮座する、哀れな夢幻。
証を—————
『開眼』
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