→→ Madrigal 11


 ——言葉を失った。


 森を抜けて目の前に広がった、花や草の生い茂る、蝶や蜂が舞う野原。地平線の代わりに水平線が拝める、眺めの綺麗な場所に、五人は出た。
 だが、全員が言葉を失ったのは、その美しさに見惚れたからではなく、小さな子供達が走り回っていそうな可愛らしいこの風景に、ひどく不釣合いなものを見たからだった。

 野原の真ん中辺りに、巨大な影。黒い電流のようなものがまとわりついている鉄色の柵の間からこぼれる、つややかな金糸。


≪ルーディン!!?≫


 その金糸の正体を見破ったフルーラが、驚愕して思わず叫んだ。


「っるせーな……」


 それに答えたのは、物凄く不機嫌そうな声だった。五人の右側の方の、森が切れている辺りからだ。
 全員の意識がそちらに向くと、丈の長い草花に隠れていて見えなかったのか、褐色の肌の人物がだるそうに起き上がっていた。どうやら、直接頭に響くフルーラの声に叩き起こされたようだ。
 過去に一度、見たことのあるその顔に、六香と夕鷹が驚いた顔をした。


「あぁッ、あんたって!!」
「げっ、あん時の……!!」
「ギャーギャー騒ぐなやかましい……」


 息ぴったりに同時に叫ぶと、その人物は露骨に迷惑そうにそう言い、大きなあくびをした。

 褐色の肌に、漆黒の髪。尖った耳に赤いピアス。椅遊を助けた時に襲ってきた、謎の魔族だった。前、野性的な印象を受けた赤い瞳は、寝起きだからか何処となく弱々しい。
 なぜ、彼がこんなところにいるのか。しかも、相手側は動じていない。まるで自分達を待っていたようにも思える。しかし、なぜ?

 夕鷹は、睡眠が名残惜しそうな魔族の男を見据え、困ったように頬をポリポリ掻いて。


「……えっと……襲撃者A!! だとありがちだから、襲撃者第1号!!」
「…………てめェ、喧嘩売ってんのか?誰が襲撃者第1号だ、誰が!」


 びしぃっと男を指差して言ってやったら、立ち上がった襲撃者第1号は、こめかみに十字のマークがついていそうな表情をし、怒りを押し殺した声で、まぎらわしに握った拳を震わせながら言った。
 そのやり取りを、何処か納得が行かない目で見てすぐ、梨音はポンと手を打った。


「……そういえば、名前知らないもんね」
「うん、聞いてなかったから。だから仮名・襲撃者第……」
「仮名つけるくらいなら名前を聞け!」
「あ、そっか。んじゃあ、お名前はー?」
「『あ、そっか』って……馬鹿だろお前……」


 今の数秒間の会話で、随分疲れた気がする。額に手を当ててひどく呆れた溜息を吐き出し、魔族の男は仕方なさそうに名乗った。


「……楸。飛鳥 楸アスカ ヒサギだ。で、その紫頭の頼りなさそうなのがリーダー?」
「へ?俺?? うーん……ねぇ、俺ってリーダーなの?」


 魔族の男——楸に指差されて聞かれたが、自分だけでは決められないと思って隣の六香に問う。突然、話を振られた六香は「えっ?」と少し驚いてから、アゴに手を当てて考えた。


「……うーん……ってゆーか、アンタ、リーダーって風格?」
≪……微妙なところだな……≫
「じゃないよね〜?ってことで、リーダーじゃないっぽいよ?」
「…………ああお前めんどくせぇ奴だな……常識人はいねぇのか、おい。風格とかはどうでもいいんだっつーの。俺が聞きたいのは、お前が二ノ瀬夕鷹なんだろ?ってことだ」
「あー、反逆者グループ?で、なんだかよくわかんないけど、俺が一番目立ってるからか〜」


 なるほどなるほど〜。と、夕鷹がうんうん頷く。このままでは話がいつまで経っても進まないと判断した梨音が、勝手に夕鷹を楸の相手から押し退けて言った。


「……なぜ、貴方がこんなところにいるんですか?」
「あ、そういや常識人いたな……采に激似の、依居……なんだっけ?」
「……梨音です。さすが、猟犬ザイルハイドの頂点にいる人の側近というだけあって、情報が確かですね」
「はぁ?俺がアイツの側近?いつからなった? ……まぁ、現状はそうなんだろうが……次、言ったら殺すぞ」


 「総帥の側近」とカマをかけてみたのだが、どうやら本当にそうらしい。正直に答えてくれるなんて、思慮が浅い奴で助かった。しかし、楸は総帥・五宮玲哉を嫌っているらしく、彼の側近と言われて機嫌を悪くしたのか、途端に氷のように冷然とした静かな目で梨音を睨み据えて言った。


「……ボクの質問に、まだ答えていませんよ」


 梨音は、理性で怒りを冷静にコントロールしたその冷ややかな赤い瞳に畏怖を抱くこともなく、答えを催促した。肝が座っているというか、度胸があるというか。二人の間に渦巻く嫌な緊迫感に、思わず身を引いていた四人は改めて梨音の凄さを知った。


「あぁ……俺が何でココにいるかって?」
「……そうです」
「見りゃわかんだろ?まさかアレ、見えてないって言わねぇだろうな」


 そう言って、楸がアゴで差したのは、森を抜けた時、真っ先に見えた大きな影。


≪そうだ、ルーディン……!!≫
「正解。あん中に入ってんのは、お前のお仲間ってわけだ、〈銀狼〉ジルヴィーン」
≪お前、ルーディンに何をした!?≫


 同族のこととなると、いつも冷静なフルーラでさえも落ち着いていられないようだ。フルーラが声を荒げて、楸に食いつくように問う。


「だから、見りゃわかんだろうが……檻の中に突っ込んだだけだぞ」
「楸、足りないよ……瀕死にしてから檻に入れたの、忘れた?」
「「「!?」」」


 楸が肩で溜息をして答えた言葉に続いて、今まで、楸と自分達だけだと思っていた野原に、第三者の声が響いた。全然気付かなかった存在に夕鷹が周囲を見渡すと、ルーディンが押し込められた檻の傍に、小さな少年が立っているのを見つけた。

 サラサラと風になびく金髪と、長い前髪に隠れた蒼と翠のオッドアイ。漆黒の大鎌に、同じく漆黒の、若干サイズが大きめのローブを着た、10歳前後の少年。


「あ」


 ピコーン、と夕鷹の中で何かが一致した。
 思い返されるのは、イースルシア城門前での、篝の言葉。
 要注意人物。


  『金髪で、大鎌を持った、梨音くらいの年頃の少年』


 ——コイツだ。
 ブザーが頭の中で、けたたましく響き渡り始める。


≪ルーディンが瀕死になっただと!? でたらめを言うな!!≫


 要注意人物の出現にどうしようかと悩んでいた夕鷹を引き戻したのは、フルーラの叫び声だった。あのルーディンがたった二人に負けたなどとは信じ切れず、フルーラは現実を無視して足掻く。すると采が、片手で自分の横を指差して言った。


「だったら……ココに来て、気が済むまで見ればいいよ、ジルヴィーン……」
「だから、真に受けんなっつの、お前は……ルーディンが大人しく檻に入るわけねぇってことは、奴もわかってんだよ。弱らせるしかねぇんだってな」
≪っっ……!!!≫
「ふるーらっ!?」


 言葉通りに受け取った采に、楸が仕方なさそうに一応解説をつけてそう諭した。それを聞いて自分の心中に気付き、フルーラは言葉を詰まらせてガリッと地面を爪で抉った。そして、やり場を失った焦燥に押されて駆け出す。

 少年と楸は、まったく動かなかった。フルーラは少年の横にまで走り、少し躊躇ってから、黒い檻のわずかな隙間から中を覗いて——絶句した。
 黒と黒の間からかすかに見えた、金糸。いつもの堂々とした姿からは想像できない、ぐったりと横たわるルーディンの横顔。


「……納得した……?」


 金髪の少年の声が、フルーラの耳を突く。


≪………………っ貴様らぁああッッ!!!!≫


 研ぎ澄まされた澄紫色の瞳は、隣の少年へと向けられた。湧き上がる憤怒とともに、勢いよく少年に跳びかかる。


「……やめといた方がいいよ」


 少年がスッと目を閉ざした。鎌が、微動した——と思った直後、フルーラの体を横切って、漆黒の光が綺麗な月を描いていた。


「ふるーらぁッ!!?」


 椅遊の悲鳴にも似た声。遠目からでも、フルーラが愕然と、目を限界まで見開いたのがわかった。

 フルーラの背から腹にかけて、大きな切り傷ができていた。傷口は白く、そこから噴き出るものもない。
 普通の狼だったら致命傷だが、フルーラは神獣だ。死ぬことはない。しかし『彼女』は苦しそうに、そこに倒れ込んだ。それでも立ち上がろうとして手足を動かすが、力が入らない。


「僕は……手加減、できないから……」
「言うの遅ぇよ」
「……タイミング、間違えた……」
「アホか、お前は……」


 フルーラが何もできないことを確認して、少年は改めて夕鷹達の方を向いた。金髪の少年は、その小柄な体躯に似合わない大鎌を肩に寄りかからせて、小さくペコリと頭を下げた。


「初めまして、二ノ瀬夕鷹とその他大勢……僕は、空良 采アキラ サイ……ルーディンの捕縛と、それを目指してやってきた王女の身柄確保、その人の周囲にいる君達をココで消すのが、僕の役目」
「おい、俺を数に入れてねぇぞ、クソガキ」
「…………僕らの役目」
「……お前、冗談抜きで忘れてただろ?言い直しても遅ぇよ、つーかむしろカッコ悪ぃぞ」


 少し真剣に決めてみたつもりだったのだが、普段のボロが出て、おもむろにタバコとライターをコートのポケットから取り出している楸にすぐに突っ込まれた。彼は火をつけたタバコを咥え、悠長に采の方へ向かって歩いていく。

 奴らの目的は、2つ。だがやはり、夕鷹達を殺すよりも、椅遊強奪の方が優先だろう。
 暗黙の了解で、六香と梨音は椅遊の前に立ち、前衛の夕鷹は彼らより数歩、前に出た。その夕鷹に、梨音が小さく言う。


「……夕鷹、あの子、予想以上に強いよ」
「うん。……神獣ってさ、結構、防御力?強いはずだしね……」


 それを一撃——正直、渡り合える自信が全然ない。

 采は夕鷹達を見据えて、とりあえず役割分担をすることにした。


「じゃあ……護衛の人達を消すの、楸の担当」
「馬鹿言え、めんどくさい。つーかお前、人の武器奪っといてよくそんなこと言えるな?」
「……あ」


 そうだ。楸の大剣がちょうどよかったから、彼の剣を柱として、ルーディンを閉じ込める檻を構成したのだった。つまり、今、楸は武器なしの丸腰である。
 予定外の事態に、采は目線を落として少し考えを巡らせてから、一人で頷いた。


「……じゃあ、逆。僕がその役で、楸が」
「うるせぇ、ココで明かしてどうすんだよ。わかってらぁ」
「じゃあいい……」


 楸の了承を聞くと、采が、肩に持たれかかった鎌の長い柄を、その小さな両手で掴んだ。
 夕鷹の金眼が、緊張に細められる。


「来る」
「うん」
「な……な、何で、そんな冷静なのよ!」


 動揺しているのは自分だけなのだろうか。そう思って椅遊を見ると、椅遊は頑張って震えを押し隠していた。


「椅遊は……返してもらうね」


 ぼそりと、采の声が聞こえた。瞬きさえも惜しいくらい彼を凝視していた夕鷹達の前で、采は地面を強く蹴り上げ、鎌を連れて高く跳躍した。
 その迷いない踏み込みと速さは、まさに疾風で。自分では追いつけないと、すぐにわかった。


(げ、速……!)


「『黒きいかずち、黒き力。集え、アルテス』」
「!?」


 ヴン、と耳障りな音を奏でて、彼の握る鎌の漆黒の刃が黒く染まっていく。それは、時たま紫の斑点を覗かせる、さらなる黒だった。


(ボク以外の、魔術師……!?)


 特殊な形をしているが、アレは明らかに魔術の類だ。現代に、自分以外に魔術を使う者がいたことと、その知らない魔術とに、梨音は動揺と驚愕で息を呑んだ。
 それからすぐ、自分が愕然としていたことに気付き、梨音ははっとして魔導名グレスメラを唱えにかかる。


「第15章、……!!」
「遅いよ」


 平坦な采の声が聞こえた時には、夕鷹の目の前に、采がいた。

 夕鷹の瞳に、スローモーションで映る世界。
 鎌を振り下ろす格好で、ふわりと、自分の目の前に落下してきた采と、目が合った。
 采が、自分の瞳を見て、驚いたような顔をしたのは、見間違えだろうか。















 俺じゃ、ダメだ。
 無理だ。手に負えない。
 でも、椅遊は護らなきゃ。
 どうすればいい?



 そんなの、簡単だ。
 単純に、捻じ伏せればいい。
 相手を上回ればいい。



(上回れば……)


 ……痛い。
 ズキズキ、悲鳴を上げる。
 刻まれた烙印。


 金眼が、痛む。
















 采の黒い鎌先が、野原の地面にもぐる。


(夕鷹、ごめんっ……!!)

「『拒絶の守護』発動ッ!!」


 夕鷹も囲う範囲では、大きすぎて間に合わなかった。夕鷹と、後の三人とを仕切るように、空間から滲み出てきた淡い緑色。瞬き1回の間だけで高速展開する状況で、かろうじてそれが見て取れた、

 その刹那。



 ドゴォォオオオオン———ッッ!!!!!



「きゃああぁッ!!!」
「ぅあ……っ!!!」
「耐えろッ……!!!」


 凄まじい轟音とともに、采の鎌が突き刺さったところから、地面がカタマリとなって吹き飛んだ。思わず頭を抱えてしゃがみこんだ六香と椅遊に代わって、飛んできた土塊を受けとめるのは、早口でギリギリ発動した梨音の『拒絶の守護』。展開している途中だった上に、勢いよく次々飛んでくる土塊に、梨音が必死の表情で叫ぶのが聞こえた。
 それから、物凄い量の土埃が彼らの視界を暗転させた。皆が何処にいて、『拒絶の守護』外の夕鷹と采が何処にいるのかもわからない。

 それは采も同じだった。ゴホゴホと咽る声を聞きながら、采は薄れつつある土埃の中で、突き刺さった鎌を冷静に引き抜く。
 防御魔術を直前で発動されたのは予定外だったが、夕鷹はその魔術の範囲内にいない。あの至近距離で食らったのだから、生きているはず——


「……!!?」


 何気なく土埃を見た時、背筋が凍った。
 風に優しく流されて、ふわふわと消えていこうとしている土埃。

 その中からする、ギクリとするような、冷ややかな視線。


(まさかッ……!?)


 そんなはずないと思いながら、ゆらりと動き出したその気配に、采が鎌で防御の態勢をとった時。
 まるで雷撃のようなスピードで土埃から飛び出してきた影の、勢いの乗った回し蹴りが、采の鎌の柄を強く振動させた。


「くっ……!!」


 金属同士で殴り合ったかのような感触に、右腕の感覚が麻痺しかけた。受け止め切れないと判断し、采は後方に跳んで、少しでも距離を開こうとする。ビリビリ痺れる右腕を左手で殴って喝を入れ、瞬間的にコチラに迫ってきた相手に向かって大鎌を振り下ろした。
 その一閃を、影は後ろにバック転して身軽な身のこなしでかわし、そこでようやく風のようだった動きを止め、右腕を押さえた采を見つめた。

 土埃が晴れる。
 土埃で滲む涙を拭き、『拒絶の守護』内の椅遊はすぐに顔を上げて、夕鷹の姿を探し——、


「…………ゆ……た、か……?」


 大きく目を見開いて、弱々しい声で、その名を呼んだ。

 ——自信がなかった。
 今、目の前に立っているこの後姿が、彼だと認めることに。


(コイツ……)


 采もまた、先ほどとまったく雰囲気の違う彼に、何が起きたのか混乱していた。ひとまず、その瞳に対抗するように采もそのオッドアイで睨み返す。

 ——そこにいたのは、まるで別人だった。
 見るものを射殺すような、冷淡な目。
 いつも笑顔が浮かんでいる顔さえも、今は怖いくらいに無表情で。


「……よく、生きてたね」


 話しかけるのにも勇気がいるような威圧感。采が喘ぐように声を絞り出すと、右目だけ、キラキラと不思議な色に淡く輝く金色の瞳をした夕鷹は、


「……逆に聞くけど、アレだけで死ぬと思った?ぬるいよ……やるからには、徹底的にやんなきゃ」
「っ!!」


 ニヤリと、嘲るような笑みで言うなり、地を蹴った。

 パチンコに弾かれたようなスピードで突っ込んできた夕鷹に、采は、とっさに逃げるようにさらに後ろに跳んで、鎌を横に構え直した。頭上に降ってきた、物凄い速さに加速されている踵落としをかろうじて受けとめ、刃の方を少し低くして、重さと一緒に振動を逃がす。
 夕鷹は受けとめられた足のつま先を内側に回して下に向けると同時に、もう片足を地面から浮かせ、その踵で采の鳩尾を狙う。やられてたまるかと、キツイ表情をした采も、夕鷹の足の軸をずらすのも兼ねて、強引に鎌を下方から斜め上へ振り上げた。
 夕鷹の方が早いかと思われた双方の攻撃は、相打つ形となった。


「ほぉ」


 狙いもなしに振られた大鎌の曲刃は、夕鷹の頬をざっくり裂き、狙いを少しずらされた夕鷹の踵は、采のアゴを蹴り上げた。上半身からうつ伏せに地面に落ちた夕鷹と、ぐらりと後ろによろめく采とを見て、楸が一人で感嘆した。


(アイツ、あの采に攻撃食らわせやがった……俺でもできねぇのによ……バケモノ同士のバトルだな、おい)


「第15章、解除リリース


 もう不用となった『拒絶の守護』を解除してすぐ、のしかかってきた重りに、梨音は対抗もできず崩れ落ちた。『拒絶の守護』で采の攻撃を防いだ反動だ。


「イオン!大丈夫!?」


 六香がびっくりして梨音を呼んで、うつむいて荒い息を吐く彼の顔を覗き込んだ。梨音は「だいじょうぶ、です……」と答えて、恐ろしい速度の中で繰り広げられる二人の戦闘を、顔を上げて見た。夕鷹の姿を探す。


「ボクより……夕鷹を、止めないと……このままだと……負けるのは、夕鷹ですっ……」
「……ぇ……?」
「そ、ソレ……どーゆーこと!?」


 意味がわからなかった。さっき見ただけでも、夕鷹は今、采を押していたのに。
 椅遊と六香は梨音の言葉に戸惑い、答えを求めて夕鷹の方へ視線をやった。

 右頬に切り傷をつくった夕鷹は、素早く振られてくる采の鎌を避けているところだった。横薙ぎで折り返す時の無駄が一切省かれた、コンパクトな振り。ある程度の回数をかわしてから、夕鷹は唐突に少し大きく後ろに下がった。なかなか当たらないことに焦れていた采が、チャンスと言わんばかりに鎌を縦に振り下ろす。
 しかし、それは罠だった。予想通りに縦振りをしてきた采の攻撃を、夕鷹は采に向かって跳ぶことでかわす。空を切った鎌の刃は、無抵抗な地面に突き刺さった。


「!?」


 ふわっと柔らかな風とともに、夕鷹が自分の懐に入ってきた。鎌は柄が長いから、間近の敵への攻撃は動きが鈍い。
 すでに勝ったつもりで小さく笑う夕鷹が、驚愕した顔をする采の黒い服の胸倉を掴み上げた時、


 がはっ、と夕鷹の口から大量の鮮血が吐き出された。


「「……ッ!!?」」


 椅遊と六香、同時に声を失った。
 事情はわからないが、鋭敏だった夕鷹の動きが突然、急激に衰えた。これを逃さず、采は鎌を地面から引き抜き、持ち上げるようにして夕鷹の背後から攻撃を仕掛ける。
 鎌の刃は、距離を置こうとして飛び退いた夕鷹の肩をざっくり薙いだ。飛び散った血が、周囲の花や草に降りかかる。


「ゆたかぁッ!!?」
「椅遊っ!?」
「椅遊さんっ!!」


 一度、膝と手をついて、すぐふらっとうつ伏せに倒れ込んだ夕鷹を見て、椅遊がたえられずにそこから駆け出した。六香と梨音が、とっさに腕を掴もうとした伸ばした手をすり抜けて、椅遊は危険であることも忘れて走る。
 ルーディンの檻の前でタバコを吸っていた楸が、待ち構えていたように口の端を釣り上げ、動き出した。


「椅遊、危ないッッ!!」


 もう、何も耳に入らない。聞こえない。
 ただあるのは、恐怖。
 予感するのは、震えるほど恐ろしい可能性。










 ゆたかが。
 ゆたかが、しんじゃう。
 そんなの……そんなの……、


 ぜったい、ぜったい、いやあっ———!!!!!










 バチッ、と何かが弾けた。

 その瞬間、椅遊が足をついたところから、いくつも円が連なった陣が開ける。しかし、いつもより展開速度が鈍く、その代わりなのか、展開範囲が広い。さらに、紫色の蛍のような、ほのかな光を放つ球体が陣から無数に溢れていた。


「コレって……魔王の召喚陣!?」
「前にも言った通り、今の椅遊さんは、感情の高ぶりだけで魔王を喚び寄せてしまうんです!」


 足元の銀色の紋様と周囲に散る黒灯とを見て六香が叫ぶと、いつも冷静な梨音でさえも声を張り上げてそう答えた。


「マジかよ、展開しやがった」


 夕鷹のもとへと走る椅遊の耳に、男の声が聞こえた。直後、すっと何気なく椅遊の正面に回った楸が、タバコの吸い殻を持った手で椅遊の鳩尾付近を殴った。それだけで椅遊はすぐに昏倒してしまう。
 楸は倒れ掛かってきた椅遊を大儀そうに肩に担ぎ上げ、術者が気絶しても広がる召喚陣を見たまま言った。


「めんどくせぇことになったな……おい采、巻き込まれる前にズラかんぞ」
「だね……檻の術、解除してないけど……?」
「うおっ!忘れてた……だったら、さっさと解除しやがれ」


 近くに歩いてきた采に言うと、そんな言葉が返ってきて、楸は、自分の愛剣の存在を忘れていたことに少しばかりショックを受けた。
 ルーディンを捕らえている黒い檻が、采の不思議な詠唱によって、天辺から溶けるように消えていく。取り払われた黒い檻の向こうに、輝かんばかりの金色のタテガミと体毛を持つ獅子が横たわっているのが見えた。体のアチコチに、浅い傷、深い傷があった。フルーラと同じように、傷口は真っ白だ。
 采が一足先に、そのルーディンの傍に突き立つ大剣のところへ駆け、楸が少し遅れてルーディンが倒れている方へ足を向けた。

 そこでふと、足元に倒れている夕鷹が目に入った。
 彼はうつ伏せで、肩の傷から流れる止めどない血を、力無い横顔で呆然と眺めていた。ぼんやりとだが、まだ目に光がある。
 その時、楸の足元で鈍い音が弾けた。楸がそれの飛んできた方を見ると、オレンジ色の髪の少女が、ガクガク震える手で銃口をコチラに向けている。その銃口から白煙が細く立ち上っているのが見えた。


「そ……それ以上、夕鷹に近付かないでッ!! 逃げるんだったら、とっとと行きなさいよ!!」


 その矛先が自分に向けられると考えると、怖かった。しかし、夕鷹を失うのも恐ろしかった。迷った挙句、六香は怯える自分の心を奮い立たせ、精一杯、楸を睨みつけて威嚇する。
 大剣のところに着いていた采は、無言で彼女を意識内から削除した。


「……楸」
「あぁ」


 声をかけると、楸は一声返事をし、椅遊を担ぎ直しながらコチラにやってきた。黒燐の舞う中、〈扉〉が下りてきていないことから、まだ時間があると判断した采は、大剣の刀身に触れた。


「この大剣、また使わせてもらうよ……『蒼き風、蒼き力。煌け、フリア』」


 その大剣を軸に、幾何学模様の金の魔方陣が展開し、その陣の外側から蒼色の風が二人を取り囲むように吹き荒れる。
 風が蒼さを失った時、二人と大剣の姿は霧のように消えていた。


 ——椅遊も、一緒に。















(……俺……何してんだろ……)


 半分食われた理性。
 朧にかすむ頭で、そう思った。
 熱い体。痛むはずの傷の感覚も、麻痺してきて。

 ふと、首筋を撫でた冷気。


(この冷気……魔王……召喚されてきた、かな……)


 知っている感覚に、真っ赤な視界でぼんやり思う。


(動けないや……このままじゃ……消されちゃうなぁ……)


 誰かが呼びかけている。その声も遠い。
 頭が、焼けるように痛い。侵食される頭。


(……でも……いっかなぁ……)


 ——生きている理由のない、自分なんて。
 どうして、自分は生かされている?
 わからない——





 優しい歌声と柔らかな音色が、暗くなっていく意識に、静かに染み入ってくる。


……………………





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